三菱庭球の歩み

★年表をご参照ください。(2023年 HI盃100周年記念特集)

★ビデオでご覧いただけます。( 2011年 HI盃復活60周年記念ビデオ『三菱庭球のあゆみ』)

三菱庭球部の誕生

三菱のテニスの歴史は古く、1911(M44)年に丸の内コートが新設されたのを機に三菱庭球部が誕生しました。
1890(M23)年に丸の内一帯は三菱社の所有となり、翌年には現在の丸の内パークビルの敷地に丸の内建設所が建てられました。その後丸の内建設所は1910(M43)年に移転しましたが、建設所の建物は全て「三菱運動倶楽部」の建物として使用することになり、材料置場や下小屋等が整理され、テニスコートが新設されたのです。
本稿について詳細は復活10周年誌の「三菱庭球部が誕生する迄(大淵鉄太郎氏)」を参照ください。

大正後期(T11頃)の丸の内一帯

三菱倶楽部開設当時

関東関西戦

三菱合資会社、銀行部、鉱山部、造船部等と言われていた時代の1914(T3)年に三菱倶楽部が創設され、各運動部が活動しましたが、当時はテニスをする人も現在と比べて非常に少ない状況でした。
1916(T5)年9月に第1回関東関西戦(境界線は関ヶ原)を神戸で開催することとなりましたが、試合当日は、不運にも雨に祟られ、中止やむなきに至りました。しかし、この懇親会において次回は東京、その次は名古屋で開催することが決まり、これが慣例となって、以後の試合は3地区で行われるようになりました。
本部庭球部も1920(T9)年より硬式庭球を採用することになりましたが、軟式庭球に愛着の念断ち難い人々も相当いたので、関東関西戦で硬式が採用されたのは、1922(T11)年になってからです。
1925(T14)年、戸外運動部担当幹事荘田達弥氏の了解を得て、本部庭球経常費で銀製カップを作り、関東関西戦の優勝カップとしました。

第5回関東関西戦 T9年7月 名古屋倶楽部

関東関西戦記録の巻物(三菱史料館保管)

HI盃の創設

岩崎彦彌太氏がロンドンに御外遊中の1922(T11)年10月、三菱倶楽部庭球部に銀製カップを寄贈されたので、直ちに打合会を行いました。同会合には庭球部長老、河手捨二氏、山岸慶之助氏、谷田友治氏、倶楽部総務部担当幹事小木植氏、その他庭球部諸先輩並びに各社戸外運動部庭球委員等、総勢約40名に及びました。荘田担当幹事からカップの披露があり、以下の決定がなされました。

  1. カップ名は「H.I.ロンドンカップ」、試合名は「H.I.ロンドンカップ戦」とする。
  2. 試合の運営は、「三菱庭球同好会」を設立し同会にて行う。
  3. 委員は、荘田担当幹事より向井輝志(銀行)、桑原芳雄、大淵鉄太郎(地所)の三氏が指名された。
  4. 第1回は1923(T12)年東京にて開催し、委員長は河手捨二氏(商事)とする。

三委員は同席上において、基金募集の相談をし、直ちに各自の帽子を持ち回り席上を一周して応分の寄附金をこの帽子の中に入れてもらいました。これが庭球同好会最初の基金となりました。
その後関係者は、数回会合打合せの上、H.I.カップ庭球試合の規定を定め、河手委員長より規定書を同封して、1923(T12)年7月29日、30日の連休に染井コートにおいて第1回H.I.カップ戦並びに第8回関東関西戦を行う旨の招請状を各地区に発送しました。

第1回H.I.カップ戦は、全国より選抜された選手によって行われ、この輝ける栄冠を獲得した最初の選手は、関門若地方より選出された岩永侃爾選手でした。
選手の内訳は、北海道、関東(槇原覚、桑原芳雄)、中京、京阪、神戸、関門若(岩永侃爾)、長崎の8人です。

岩崎彦彌太氏は1926(T15)年に帰国され、以降欠かさず観戦されました。
大正13年から昭和9年までのHI盃選手の記念撮影写真をご覧ください。選手氏名が記された貴重なものです。

回を重ねること20回、戦況厳しく1942(S17)年を最後として、関東関西戦と共に一旦幕を閉じます。

(注)カップ名は、発足会にて「H.I.ロンドンカップ」とされましたが、その後「H.I.」、「H.I.盃」、「HI盃」等と様々に呼称されました。2001(H13)年のHI盃復活50周年記念行事において、記念誌を上梓するにあたって「HI盃」に統一されました。

第1回HI盃 大会委員長 河手捨二氏(商事取締役、後に鉱セメ会長)

復活第1回大会委員長 石黒俊夫氏(本社清算人)

第5回HI盃 S2年10月 神戸和田コート

戦後HI盃の復活

連合軍総司令部によって行われた財閥解体の大旋風は、三菱養和会をも四散させ、三菱各社の横の連絡は全く断たれた形となりました。しかし1946(S21)年の染井コートの復活は、自然に同好会のメンバーを集めることになり、同年7月、戦後第1回の庭球懇親会を開かれ、岩崎彦彌太氏を始め、39名が出席しました。

同年末より独立経営となった養和会には続々外郭団体が入会するようになったので、三菱の独占は許されなくなりました。一方、三菱専用コートの喪失は、自然に各社専属コートの設立を促すことになり、銀行、金属鉱業、電機、その他もそれぞれのコートを有するようになりました。

1951(S26)年に至り、岩崎彦彌太氏が公職追放解除となったことを受け、庭球同好会の念願はようやく実現の緒に付き、翌年にHIカップ戦と関東関西戦が復活することになりました。この報に接した関西、中京、九州等各地の有志は双手を挙げて復活に賛意を表しました。千代田銀行は、この催しのためコートを3面から5面に拡張しました。

復活第1回HIカップ戦・関東関西戦は1952(S27)年9月21日東京千代田銀行の武蔵野コートにおいて石黒俊夫委員長(地所、本社清算人)の下で行われました。同時に45歳以上ペアによるダブルス100才トーナメントが新たに設けられ、戦前に増す庭球大懇親試合が挙行されました。天候にも恵まれ、岩崎様以下約百名の選手をが集まり、和気藹々の内に滞りなく終了しました。

復活前後の様子は白木小一郎氏の「HI盃復活前後の思い出」で、染井コートでの活動風景は中島正樹氏の「染井コートの思い出」(いずれもHI盃復活10周年誌より)で語られています。

HI盃発会式 S26年12月 染井

復活第1回大会 S27年9月 千代田銀行武蔵野コート